ネパール-Nepal-

翌日、私は早速ネパールへ向かうバスに乗った。
やたら休憩の多いバスで、到着した時には夜の8時を過ぎていた。
(前は6時前には着いたのに…)

国境には前と同様アルジュンが待っていてくれて、
彼の手早い対応のお陰で、ぎりぎりながら国境を越える事が出来た。(国境は8時で閉まる)
本当ならばそのままディディの家に向かいたかったのだが、
政情の不安定なネパールは、当時夜8時から外出禁止令が出ており、
そのままイミグレーションの近くのゲストハウスに落ち着いた。

半年ぶりに会うアルジュンは、前のツンツン頭の爽やかスポーツボーイから、
髪を斜めに流したオールドヨーロピアン風の、なかなかイイ男になっていた。
before after
左が前の夏、右が今回。大して変わんないスかね(笑)


翌日、早速ディディの家へ向かう。
ディディとベナは前のように優しく迎えてくれて、
何より、キッズ達のかわいい事かわいい事!
ちょっと大きくなったクリスは、前より言葉を話すようになっていて、マジかわいい!
「大きくなって…」と親戚のおばさんのようなせりふを言いながら
午前中は子供たちと遊び、夜はディディとベナと飲んで、
私のネパーリライフは順調にスタートした…
クリス ディディ一家と
(左)クリス半ケツ。セクハラ受けてるところ。本当にカワイイ…(右)ディディ一家と。いいちこ飲みました。

…かのように思えたが、翌日ものんびりしていたら、
「明日カトマンズへのバスはストライキだよ」という情報を入手し、
明日カトマンズへ行こうとしていた私たちは、焦って家へ戻り、今晩発のバスへ準備する事になった。

ちょうど、この2週間後に選挙を控えていたネパールは相当情勢が不安定で、
一応ストライキの開催者(?)であるマオイストは「○日からストライキ始めますよ」と宣言してくれてるのだが、
実際にはその前からポツポツと断続的にストライキは起きていた。

無事にバスに乗り込み、ホッと一息。
これで明日の朝目が覚めたら、私の大好きなカトマンズだ…☆

バスは真っ暗な道を快調に飛ばし…と思ったら、数時間後いきなりバスはUターンし、しまいには止まってしまった。


…何だ?


100%ネパリのローカルバスに乗っている私は、何が起こっているのか把握出来ない。
とりあえずアルジュンを走らせ、報告を待つ。

事はこうだった。
今晩12時から、カトマンズへの道のり上の、とある地区がストライキになるという話があり、
このバスはそこを無事12時前に通過したのだが、
その先で暴動が起きているという風のウワサが運転手の耳に入り、
動揺した運転手はバスをUターンさせ、12時以降ストライキになる地域へ戻ってしまった。
そしてその地区内で様子を伺っているうちに、12時が過ぎてしまった。

何せストライキってのは車を動かす事が出来ないって事だから、
国境まで帰る事も出来ず、もちろん前にも進めず、この地区で1日を過ごさなければならない、という事。
つまり、後にも先にも動けない、とか、立ち往生、とか、にっちもさっちも、とかそういう系だ。

…いきなり真夜中に山道のド真ん中でバスは止まってしまった。
他の乗客は、そのままバスの中で寝始めたが、バスの中は埃っぽくて、空気が良くない。
もちろんリクライニングもないし、山の夜は結構冷える。
初めてのネパールの時同様、カトマンズまでの道のりで足止めを食らう事になり、ガックリしていると、
アルジュンが、近くに宿を見つけてきてくれた。


こんな山の中にも宿があったのね…!


バスで寝るよりかちょっとはマシなはず。
私たちは荷物を背負って、その宿へ移動し、部屋へ入った。

「…これ明らかにお客さん用の部屋じゃないよね…」

部屋は、壁に映画スターのポスターなどがたくさん貼られていて、
着替えの入ったタンスや、学校の教科書などが入った本棚がある。
きっと、普段あまりお客さんのいない宿に、このストライキで急にお客さんがたくさん来たから、
宿のオーナーもこの稼ぎ時を逃すまいと、息子の部屋でも空けたのだろう。

「…まぁバスで寝るよりはいいか…」
というわけで、私は普段オーナーの息子(予想)が寝ているベッドで寝る事になった。
息子の部屋
(上)息子の(と思われる)部屋。切れてるけど、上にポスターが貼ってあった。


一晩明け、明るくなった外へ出てみる。
すると、こんな光景が広がっていた。
ストライキ1 ストライキ2

カトマンズへの道に、ずーーーーーーっと続く、トラックとバスの行列。
今日一日、このまんま。

恐らく夜になったらストライキは解除になるだろう、という話らしく、
みんな路上で火をおこしてご飯を作ったり、芝生で昼寝したり、立ち話したりして時間を潰している。

…いやー、どうしてみんなこんなのん気にしていられるのか。
私は一人でイライラしてしまい、
「いつになったらストライキ明けるの?!」
「今晩明けるってのは確かなの?!」
「何時になったら車動くの?!」

というように、とにかく周りに当り散らしていたのだが(相当迷惑)、
アルジュンはじめ、誰に聞いても
「ケ ガルネ…(どうなってんだかね…)」

何を聞いても「ノープロブレム」の一点張りなインド人もすごいけど、
こんなにも情報のない中で動じずに「ケ ガルネ〜?」と言っていられるネパール人も、
随分広い懐を持ったもんだなぁ…と思わず感心してしまった。

一日中何もやる事がなく、本当に本当に暇だった。
人生で一番長いんじゃないだろうかというくらい長い一日だった。

(上)暇つぶしに、車の列を眺めてて発見した、積載過多のトラック。

どうやら夜の8時にストライキは明けるという説が辺りを流れ始め、
時計が8時を指すのを今か今かと待っていたのだが、
8時を過ぎても、9時を過ぎても、一向にこの車の行列が動き出す気配はない。
10時を過ぎて、アルジュンが、宿を取ろうと言い出した。

あぁ、結局動かないのか…。
ヤケになった私は、酒と肉のつまみを買い、部屋でアルジュンとパーッと飲んだ。
…そうでもしないと、やるせなくてやりきれなかったのだ。

夜の12時を過ぎ、まだ飲み続けていると、外でブロロロ…と、あちこちからエンジン音が聞こえてきた。

「ストライキが明けたんだ!!!」

私たちは急いで荷をまとめ、バスへ戻った。
あまりに長い列だったから少しずつではあるけれど、確実にバスは前進している。
「やったね、やっと朝にはカトマンズにいるね…!」

この日の朝から、なんとなく体がずっとだるくて熱っぽくて、
さらにはバスに乗り込んでから寒気がしているような気もしていたが、
この時の私は「何物たりともカトマンズには代えられない」というほど、カトマンズしか見えていなかった。

早朝、具合が悪くて目が覚めた。
山の中だから寒いのかと思っていたけど、明らかに寒気だとわかるくらい、気分が悪かった。
横に座っているアルジュンに、バスが今どこにいるのか聞くと、
「結局あれから大して動いていないんだ…」

アルジュンの話によると、バスはまだトータルの道のりでは全然国境寄りの位置にいるらしい。
これから行く先にもストライキの地区があるようで、
このバスは、あきらめて国境へ戻るらしい。
どうしてもカトマンズへ行きたい人は、カトマンズへ向かうバスを探して移る事になるようだ。

こんな調子では、カトマンズに着くまでにあと何日かかるのか、わかったもんじゃない。
カトマンズまであと数キロというのならまだしも、先はまだ長い。
そして今の私の体調は、明らかにカトマンズまで持つとは思えなかった。
久々に本気で調子が悪いのだ。

私たちは、国境に戻る事に決めた。


それから数時間して、バスは国境の街へ戻ってきた。
本当に本当に具合が悪くて、バスの中で何度も眠りそうになったのだが、
アルジュンに「寝たら起きるのがつらくなるから寝るな!」遭難した山岳隊のように叩き起こされ、
意識が半分朦朧とした状態で、私は揺られていた。

そして、這這の体でディディの家にたどり着いた私は、
ディディたちへの挨拶もままならず、そのまま死んだようにベッドに倒れこんだ。

(上)ダウンした私。汚い絵ですいません。アルジュン撮影。


翌日、起きてみると、ディディ一家が全員いなくなっている。
「あれ、みんなは?」
「ディディのアンクルが亡くなったから、みんなそっちに行ったんだ」
「あ、お葬式?…いつ帰ってくるの?」
「13days later」
「13days?!」

どうやら、話によると、ディディの親戚の叔父さんが亡くなったようで、
ネパールでは、誰かが亡くなると、その人の家に親戚一同が集まり、
2週間ほど寝泊りを一緒にするという風習があるようだ。(誤訳だったらごめんなさい)
とりあえず、ディディ・ベナをはじめ、子供達も全員行ってしまった。

カトマンズに行けない気配が漂い始めた頃、
私は「ネパールの日々は全部ディディの家でホームステイっていうのもいいかもしれない」と考えていた。
ネパール=カトマンズorポカラ、というのが定石だが、
そこであえて、誰も立ち止まらない国境近くの街で、2週間のホームステイ。
家にはかわいい子供達もいるし、周りにはツーリストも少ない。
ディディにネパール料理を教わって、子供達にネパール語を教わって…それはそれで楽しそうじゃないか?

こうしてカトマンズ行きが成らず、帰ってきた今、
ディディの家でネパールの全日程ホームステイ、は、ほぼ確定となったが、
ディディ一家は留守。
つまり、ディディの家で、アルジュンと二人暮らしする事になった。

本当はみんなにご馳走するはずだった「雑炊のもと」を使って、自分用に雑炊を作る。
きちんとベッドがあり、体を休められたせいか、数日のうちに、私の体調はだいぶ回復した。
雑炊 チャウチャウ
(左)ダウンした私を救ってくれた、雑炊と味噌汁。(右)ネパールのインスタントラーメン。なぜかみんなスープを別にする。これにも助けられた。


ここから2週間弱、ディディの家に滞在していたわけだが、あんまり書く事がない。
なぜなら、毎日があまりに平和過ぎて、暇過ぎて、特筆すべき事がないのだ。

<典型的な一日>
朝起きて、ベランダで顔を洗う
洗顔

ベランダで洗濯をする
洗濯

屋上で朝ごはんを食べる(右の写真は屋上からの景色)
朝食 屋上から

日が昇ったらシャワーを浴びる(左:シャワールーム。右:アルジュンはベランダで水浴び)
シャワー 水浴び

家の掃除をする
掃除1 掃除2

ある日は、レストランにご飯を食べに。
レストラン

ある日は、友達のところへ遊びに。
ロメシュと

ある日は、ネットカフェへインターネットをしに。
サイバー

そして数日たって、明日から本格的なストライキらしい。
交通機関だけでなく、店も閉まってしまうという事で、アルジュンと市場へ買出しに行く。
市場はすごい人でごった返していた。
私はついて行ったものの、アルジュンに「迷子になるからここにいろ」と言われ、
市場の端で、アルジュンが次々運んでくる食料の見張り番にさせられた。
市場1 市場2 市場3
(上)市場の様子。主に野菜が売られており、天秤で量り売り。


ストライキになってからの日々はいつもに増して暇になり、
家でヒンディー映画を見たり、ドラマを見たり、
あ、そうそう、「るろうに剣心」がヒンディーでやってた。
しかもタイトルは「サムライ エックス」。エックスって、剣心の頬の十字傷にかけたんだろうかね。

まぁそんなこんなで、かなりローカルなネパーリライフを堪能し、
ネパール滞在も残り2日、となって、やっとみんなが帰ってきた。

ベナは早速一緒に飲んでくれて、ご機嫌なのか、歌まで披露してくれた。
ディディは、初日に私が「サリーを着てみたい」と言ったのを覚えていてくれて、
私に綺麗なサリーを着せてくれた。
「ピンクは似合わない」と言い続けて22年の私だったが、このサリーはしっくり似合って…ない?
ベナと ピンクサリー
(左)ベナと。なかなかの酒豪だった。(右)ピンクのサリー。小柄なディディのサイズで心配だったけど、ナントカ。

ディディは、自分が結婚式で着たという赤いドレスも着せてくれた。
しかも、ピアスとネックレス、チュラ(腕輪)はプレゼントしてくれた。
ディディと エリサ、友達と
(左)サリーを着せてくれたディディ。(右)エリサと、その友達。みんな私と写真を撮るためにわざわざ着替えてくれた。妖精みたい…


ネパールには結局2週間ほどいたが、ディディ一家と過ごしたのは賞味2日という
よくわからない滞在ではあったが、私はもうインドへ戻らなくてはならない。

荷物を背負い、家を出ると、子供達がみんな家の屋上にのぼり、
「マイジュー!!タターーー!!!(またねー!)」 と叫んで手を振っている。

あぁ、ネパールってのは何回来ても満足出来ない。
体壊したのも1回じゃないし、ストライキの被害に遭ったのも1回じゃない。
痛い目には嫌というほど遭っているはずなのに、
こうしていつも優しい人たちやかわいい子供たちが迎えてくれて、
「また来なきゃ」と思わずにはいられない。…ネパール狂ですね、もはや私。
ディディ宅
(上)ディディの家。みんな上に上って手を振ってくれてる。


バラナシ-Varanasi-
さてさて、今回も前回同様、アルジュンと一緒にバラナシへ向かう。
インドへ抜けるバスからは、マリッジ・シーズンの2月ということで、何度も結婚式が見えた。
インドの結婚式は、本当に派手、の一言につきる。
昔のパチンコ屋のような、安っちい電飾が一面をギラギラ照らし、仮設のパーティー会場みたいになっている。
実際に参加した事はないが、たいてい夜に始まって、朝までみんなで踊り明かすのだそうだ。
私の中では、映画「踊るマハラジャ」みたいのしか想像出来ないが、
…いやー…とりあえずすごいんだろうな…。

インドのゴラクプルからバラナシまでは、夜行列車に乗り、
翌朝、バラナシに到着した。

ストライキも外出禁止令もないバラナシにやって来て、さぞかし私たちは活動的になったかというと…

もうネパールでの堕落ぶりが抜けなくて抜けなくて、
毎日昼近くまでゴロゴロ寝てる→のそのそ準備→ご飯を食べに出る→
外は暑いからノロノロ帰ってくる→ 煙草吸ったりチャイ飲んだり、ちょっと近所の人と話したりして日が暮れるのを待つ→
日が暮れたら食べに出る→帰ってくる→寝る。
チャイ屋のダイ
(上)仲良くなったチャイやのオヤジ。

だって、ガンジス河で有名なバラナシに来てるのに、全然河に行かなかった。
「あれ、そういえばガンジス河見てなくね?」「あぁ…行く?」
みたいな感じで見に行ったぐらいで、しかもそれも暑くてすぐ帰ってきた。
ガンガーで
(上)河のほとりで佇むアルジュン少年。


そんな堕落生活の中で、唯一頑張ったのが、サリー選びだ。
ディディに着せてもらって、1枚の布があんな綺麗なドレスになるという神秘さに魅せられた事と、
旅の後に待っている卒業式でサリーを着ようという密かな目論みがあり、
インドにいるアルジュンの友達、ナレンが知り合いのサリー屋さんに連れて行ってくれた。

すると、「大人っぽい黒いサリーが欲しい」と言っているのに、
サリー屋のオヤジは「黒は葬式でしか着ない」と言って、 アホみたいな赤やピンクのサリーばかり出してくる。
「こんな派手なの着れるかい!」とツッコみまくってるうちに、
だんだんオヤジもわかってきたようで、青やえんじ色の、地味めのサリーも出し始めたが、
どうにも「これだ!」というピンと来るものがない。
「ウーン…」と渋る私をよそに、オヤジは50着以上のサリーをそこらここらに広げ、
「これだけ見せたんだからyou have to chooseとか言い出した。
や、お前が勝手に広げたんだろうがよ。

最終的に、私は青、赤紫、紫の3着を購入した。
何だかんだ文句をたれつつも、サリーというのは見れば見るほど美しくて、1着には決められず、
「まぁ私なら日本帰ってからも定期的に着るだろう」と思い、購入した。
結果的に、ここで買ったサリーは卒業式でも大好評で、
さすがにまだ卒業式以外では着用していないが、十分にもとは取れたと思われる。


そんなこんなで怠惰満点のバラナシ生活もあっという間に終わり、私はデリーへ戻る事になった。
毎回の事ながら、アルジュンとのお別れは寂しい。
しかも、今までは、「夏に来るから」とか「次の春に来るから」とか言えたけど、
4月から社会人生活の待っている私は、もう約束は出来ない。
「多分2,3年後また会おう…」 とか曖昧な事だけ言って、私たちは別れた。

次いつ来れるのかは本当にわからない。
でも、いつか必ずまた来る。
だって、素敵な友達や家族がたくさん待っててくれてるから…。
だから、次行く頃までには治安よくなっててくれー。切実に。


デリー-Delhi-
翌朝、列車はデリーに到着した。
ここで一泊して、翌日飛行機でタイへ飛ぶ。

宿を探すのも面倒くさかった私は、初日に泊まった宿へ向かった。
宿には、初日に出会ったのとは別のネパール人がいて、
話してみると、アルジュンと同じ「ライ」というカーストの人である事がわかり、
なんとなく嬉しくなった私は、彼ディワシュと一緒に、 ネパール料理レストランに晩ご飯を食べに行った。

ディワシュはとりあえずよく喋る男で、翌朝のフライトのために荷造りしたい私の気持ちをよそに
「インターネットをしよう」
「あそこのオムレツがうまいんだ」
「夜の駅を見に行こう」
「ここの屋上の眺めがいいんだ」
と、次から次へと私を引っ張りまわし、ようやく釈放されたのは、午前4時を過ぎてからだった。
ディワシュと 体重計
(左)ディワシュと。お酒の飲めるところへ行くと、客層が悪い(後ろ参照)(右)夜の駅で見つけた体重計。なぜ駅に?しかもコイン入れたら壊れてた。さすがインド。


早朝のフライトだったため、まだ夜の明け切らないデリーの町をタクシーで走り、空港へ向かう。

あぁ、これで私のインド・ネパールの旅はおしまいだ。

初めてこの空港に降り立った時は、肌が黒くて目だけがギョロギョロしてるインド人が怖かったっけ。
インド英語はわからないし、お金はボられるし、大敗したなぁ。
でもなぜか忘れられなくて、また行きたくなって、気づいたら1年で3回も来ていた。
色んな事があり過ぎて、まとめられないけど、…いい事も悪い事も含めて、楽しかった!!!

「絶対また来る…!」

インド・ネパールでの思い出で胸をいっぱいにしつつ、
そしてこれからの橋本部との再会inタイにドキドキしつつ、
私はバンコク行きの飛行機に乗り込んだ。



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